仏教とグリーフケアの重なりについて

NHKのあさイチで「篠栗の母」と紹介された坊守、真誠(僧名)です。

昨夜からの雨は、九州北部50年に一度の大雨とニュースが流れる。これから雨の災害が心配される季節となりますね。
自然の力にはどうすることも出来ません。ただただ祈るのみですね。

今日は息子が書いたフェイスブックの紹介です。
リヴォン僧侶の為のグリーフケア課題「仏教とグリーフケアの重なりについて800字程度で述べよ。」

仏教と死は大きな関係性の上で成り立っています。死から逆算して物事を考える目線を仏教では大切にしていて人生の到達点である山の頂上を死と定義して、まだ山の頂に至っていない山の麓に居る、今の自分の状態をゴールから逆算して見ることで、死をより良く生きる為の灯明とするのです。
言うなれば死からのバックキャスト思考をする事で精神向上に努めていく為のツールが死です。

そうは言っても人間は自分の為だけに生きる事は心苦しく誰か大切な存在や物や想いを持つことで生き抜く為のパッションとしていくことも必要であります。

しかし誰もが例外なく守りたい人が出来ると守りたい物や守りたい仕事や守りたい家、守りたい思い出守りたい信念などなど多くの大切な物が出来る事でやがては時間や現象の移り変わりによって変化や喪失などの耐えがたい現象に心乱され憂い悲しむ事になります。

死別により大切な方を無くすと、故人を失うだけでなく故人との関わり合いの上で存在できていた自分さえも喪失してしまいます。故人さんの前だけで見せていた自分の表情、言葉使いや会話、自分のありのままを表現出来るステージが消えてしまった様になります。
最愛の人との別れは死という現象を残された人に強く意識させるキッカケとなります。

そしてやがては最愛の自分という存在とも別れなくてはいけないという事を自覚することにもなり、その強烈なインパクトは日々の生活の中でも共に過ごした生活圏内や思い出の場所などを見るたびに思い返され心に重くのしかかり、まるで交通事故にあったかの様に突然にその思い出に襲われるのです。影の様にいつまでもくっついていて離れる事が無いのです。

仏教にはこの様な言葉があります。

「ものごとは心にもとづき、心を主人とし心によって作り出される清らかな心で話したり行なったりするならば幸福はその人に付き従う。影がその体から離れることがないように」

その思い出や執着は悪い物ではなく、その状況を経験したからこそ人の悲しみ痛みに慈しみの心をもって寄り添える慈悲という物が芽生える

自らの喪失体験による影によって苦しむ事もあるが、その影を悪いものとして切り捨てる事は自分が存在している以上出来ない

その影を持っているからこそ焼けるような熱線から他者を守ることが出来るようになれる。

より良く生きる為の神(愛、慈悲、祈り、何かを育もうとする力)による恩寵的試練として死を明らかに認めていく心を主人に支援者として

より良くその人らしく生きていけるように支援していく姿勢を仏教とグリーフケアに見出していきたい。

副住職 加藤大周

さて、我が家の家庭菜園 本日の収穫 キュウリ4本 シシトウ1個 ミニトマト3個
累計 キュウリ17本 シシトウ1個 ピーマン2個 ミニトマト8個 でした。

可愛い茄子の実です。何日したら収穫出来るのでしょうか?楽しみです。合掌

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